2014年の秋、ある不思議な出来事がありました。
私が良く通うとても小さな防波堤。大分県南鶴見半島の先端近くにある旦賀という漁港です。
私は25年以上も前にその場所を知り、父や友人とアオリイカやグレ、ヒラスズキ釣りを楽しみました。
防波堤の入口に塩屋があり、その奥には「旦賀砲台跡」という看板がついていました。トーチカや防空壕といったものは各地に残されていますから特に興味を持っていませんが、痕で知ることとなった風向きをみて竿を出していたその場所は、当時砲台を建設する際に基礎となる石を運ぶ、船付き場でした。
「あんたたちはマナーがいいから釣ってもいいよ!」そう言って塩屋のおじさんが特別にそこに入って魚を釣ることを許してくれていました。
防波堤は各地にたくさんあり、そこに行きつくまでにも多くの”良く釣れる”防波堤があるのに、なぜ自宅から200キロ以上も離れたその小さな防波堤にせっせと通っていたのかは説明がつきません。
ある日シアトルに住む姪から家内に連絡がありました。すると家内から「大分に旦賀という場所がある?」と尋ねられました。
私は突然何を言い出すのか驚きながらも「知ってるよ、それがどうしたん?」と聞くと、
「虎彦さんがなくなった場所らしいよ!」とのこと。
「えっ?」「虎彦さんって誰?」
その虎彦さんは、家内の実家でいつも私を見下ろしている遺影の人でした。虎彦さんはその砲台で爆弾が暴発して亡くなった方でした。
私はその話を聞いて鳥肌がたつほど仰天しました。義母の叔父にあたり太平洋戦争で亡くなった方ということは聞き知っていました。当時は鶴見半島の先端部にありながら道がなく、船で行くしかない部落です。平成の時代になり、ようやく車で行けるようになったので、その頃から私もその地に通うようになったのでした。
当時、秘密裏に建設されていた砲台につき、大本営より叔父が大分県内で亡くなったことと、戦死ではないことだけが知らされたそうです。その後、虎彦さんのことは闇の中に埋もれたままでした。
佐伯市が丹賀砲台園地として整備を行ったことと、姪が「永遠のゼロ」という映画を見てインターネットで名前を検索したことがきっかけとなったのです。私は、今回のことは偶然とは思えず、何かの力が働いたものと信じ、2014年10月25日から家内と慰霊の旅に出かけることにしました。
つづく